なかゆくい 103号(平成10年9月)
EDUCATION & RESEARCH
まい・りさ〜ち

餬 餅

廣 瀬 康 行 (医学部附属病院)

uploaded 1998.7.24

 人はたえず息をして生きていますが,ふだんは呼吸を意識しません.これと同じように,人はあたかも息をするがごとく,たえずデータやインフォメーションを扱いながら生活しています.このことは普遍であって,なにも医療や医学に限った現象ではありません.
 ならばなぜ医療情報なる学が存するのか,学としての必然性は何か,などといった問いを投げかけてみたくなるという方もおられるであろうと推測しています.このような問いは,新しい研究領域が開拓されそして学問領域として認知されていく過程のなかで,繰り返し為されてきたことでしょう.
 本稿はこの問いに対して直接的に答えるものではありません.しかし医療や医学をとりまく情報環境を絡めつつ私の問題意識や研究歴を御紹介することは,自ずとその答の一部を示唆することになるであろうと思います.

 さて医療情報と称される領域で現在盛んに研究されている主題を大別してみると,以下のように分類できます;

このような間口の広さは,医療や医学それ自体の間口の広さに起因しています.とくに,医学ではなくて医療や福祉とは,社会と歴史とに根ざした現実もしくは現実的対応にほかなりません.また病院という施設には,衣食住あり金銭出納あり,多様な資格や権限や義務を持つ構成員,そして複数の機能部署にはたえず相互連絡が求められており,まさにコミュニティと呼ぶにふさわしい構成が存しています.これらの意味において,病院を社会の縮図として捉えることも可能でしょう.

 私は,このような病院のなかで情報システムを構築することから医療情報と関わるようになりました.当時の病院情報システムは,伝票処理,検査等のオートメーション化,売上額や請求額の計算処理,この三つを主としていました.よってこれらの処理を行うに必要十分な・いわば形式的な・リレーションは,当然ながらデータベース内に定義されていました.しかし,診療行為における・意味的あるいは論理的な・データ間相互の・関連づけは,ほとんど意識さえされていない状態でした.
 ここで云うところの「関連づけ」を持たないということは,診療での意思決定過程や事象の因果関係などは記録されないことを意味しており,結果として診療論理の反映や事後追跡性などは求むべくもありませんでした.
 つまり,コミュニティ特有の社会性等をなんら反映できていないばかりか,医の本質までも写しとることのできないシステムでしかありませんでした.私はこれに対するソリューションを目的として,研究を始めることとなりました.

 そして前任地である東京医科歯科大学においては POMR(Problem Oriented Medical Record)を下敷きとしつつ,「病名やプロブレム」と「個々の診療行為」とを時間軸の中で密接に関連づけるシステムを構築しました【註1】.しかし幾つかの制約要因から,関係定義の曖昧さに起因する論理性の甘さや意思決定過程の記録あるいは事後追跡性などに,不完全さを残したままでした.
 制約には技術的あるいは経済的要因などもありましたが,研究を続けるなかで,根底に流れているもっと本質的ななにかが足りないことに気がつきました.すなわち診療の文脈と論理性とを追究するには,そもそも既存の表出方法の枠組みにとらわれることなく,医師の(あるいはヒトの)思考過程もしくは決断過程そのものを探求する必要があったのです.したがって POMR という書式はもちろんのこと,とりあえずはソフトウエア工学におけるモデリング手法も採用せず,認知科学的なアプローチに転じました.

 その結果,幾つもの知見を得ることができましたが,その中の主要なものとして「問題解決空間の定式化」があります【註2】.これは,プロブレムの発見または形成定義から・治療目標の設定を経て・治療計画の立案と実行に至るまでの・思考ステップを順次定義しブロック化し,時間推移の中で対象世界のデータや情報と統合的に関連させ,かつ個々のブロック間の関係を規定し,さらに同一ブロックの変遷関係へも配慮しつつ,複雑な思考空間を定式化した基礎研究です.
 理論的には,この構造化空間を診療データベースの骨格構造とし,かつ対応するヒューマンインターフェイスを作成すれば,診療の文脈と論理性とを写しとることが可能となります.これによって事後追跡性が保証され機械監査が可能となり,診療の経験や知識の蓄積による機械学習の環境が整い,エキスパートシステムなどの高度な支援機能を持ったシステムの構築などが射程距離内に入ってくることとなります.ただ現段階では構造が複雑に過ぎるので,実務システムとしての実装に適する状態ではありません.したがって今後は,この基礎研究と実務システムとの溝を埋めるよう種々の応用研究を展開していくつもりです.
 上述の研究過程で得た他の知見としては,ヒューマンインターフェイスのあり方や,それを下支えする世界知識などの格納構造に関する事柄です.たとえば,ハンドリングについてはデータや情報だけでなく手順や論理さえもモノとして扱うことの意義ならびに根源的な重要性,リトリーブについては用語や概念などの「近いと遠い」や「想起」に関する研究の端緒などがあります.

 これらの基礎研究は必ずしも数学的手法や神経科学の応用あるいはソフトウエア工学を前提とするものではなく,当初のアプローチとしてはむしろ,哲学や認知科学などのほうが適しているような気がしています.もちろん実装実験の段階となれば,ソフトウエア工学や数学などの援用が不可欠なことは言うまでもありません.いづれの段階にせよ,学際的なコラボレーションが成立すればそれが最も望ましい姿であり,したがって私は,そのような研究環境に恵まれた琉球大学に籍をおくことができて幸運と感じております.

 このほかにも医療情報には興味深い主題が多々あります.私が手がけた研究や仕事には現在進行形の事項も含め,歴と痕と版管理,視座と文脈,場の形成,アクセス管理における関係と状況,DTD/SGMLを応用した診療情報交換の標準化作業などがあります.
 とくにアクセス管理における「関係と状況」については,患者自身による秘匿コントロール権や患者への情報公開など,今後に強まるであろう社会的な要請へ対処していくため機能環境です.これは病院情報システムにおける国際標準となる可能性を秘めています.他の事項については,与えられた紙幅を既に越えているので,御紹介できないのが残念です.

 こうして振り返ってみると,私はいつも身近な現実世界から研究主題を拾い出してきたように思えます.それは診療現場の切実な願いであったり,今後に予測される社会的あるいは政治的な要請へ対処していく病院システムをデザインするためでした.
 そのような,学としては些末に思える事柄でも,それを突き詰めていけば日常性に隠蔽された種々のメカニズムを開示するに至ります.しかし単にこれを知るだけでは実装システムにはなりえず,システムとして具現化するためには,さらに創造的な知的作業が必要とされます.
 医療情報学は社会への直接的な貢献を目標とした実学として位置づけられる,という解釈が一般的であろうかと思われます.しかしそれを真に実現するためには,本稿で御紹介したような広がりと深みとが求められていると感じています.


■ 註

1.POMRとプロブレム

POMR とはWeed が提唱した診療録(カルテ)の記載方法.

単なる時系列的な羅列もしくは散文的な記述ではなく,プロブレム(=主要もしくは重大症状,あるいは患者の主訴)を時間軸と並行させて主軸におき,個々のプロブレムに対してそれぞれSOAP(A:患者の主観的な訴え,O:診療スタッフによる客観的な所見,A:それらの考察と評価,P:状況を勘案した診療計画)を記していく方法.したがって problem oriented と称している.

この診療録記載方法によって,解決あるいは注目すべき問題とその優先順位を明確にすること,ならびに診療スタッフの思考とその材料の明示が可能となった.しかし記録媒体は紙を前提としていることなどにより,今日ではその限界も議論されるようになりつつある.

なおプロブレムは単一とは限らず複数存在しうるので,プロブレムリストと呼ばれる集合を形成することになる.時間推移によるSOの変化に応じてAも変わるので,これに依りプロブレムリストが変遷することがある.とくに診断過程の診療では,プロブレムリストの中の複数のプロブレム(愁訴や所見)は,ただ一つのプロブレム(主病名)に集約されていくことがある.この過程は医師のウデの見せどころの一つでもある.

2.問題解決と問題解決空間

ここでは問題解決という用語を,人工知能学におけるソレとは異なる意味あるいは別の機能を表す用語として使っている.

ここで云うところの問題解決空間とは,「プロブレム自体の発見や形成定義」「目標の設定」「(問題解決のための)計画の立案と実行」,これら三者のメカニズムや相関を全て含んでいる.

一方,人工知能学における問題解決とは,むしろここで云うところの「計画の立案と実行」の機能であり,「目標」も通常すでに与えられているのである.