医科学情報教育のありかたについて

 

 

 

平成10年7月15日

 

廣瀬 康行

 

琉球大学 医学部附属病院 医療情報部

 

 

 

目 次

 

1. 前文

2. 医科学情報教育に必要な事項

2.1. 概論

2.2. 各論

2.2.1. コンピュータ リテラシー

2.2.2. インターネット

2.2.3. 診療録(診療行為とその履歴)

2.2.4. 情報管理学

2.2.4.1. 医療学

2.2.4.2. 病院における情報環境

2.2.4.3. Confidentiality & Security

2.2.5. 論理学/解釈学/認知科学

2.2.5.1. 意味と思考過程

2.2.5.2. 情報の伝達

2.2.6. 情報工学

2.2.6.1. モデリング

2.2.6.2. プログラミングその他

2.2.7. 医科学統計(含む推計学)

2.2.8. 哲学と宗教

2.3. 諸外国の医療情報学カリキュラの例など

2.3.1. Why Teaching Health and Medical Informatics ?

2.3.2. Courses

2.3.2.1. Univ. of Maastricht, Netherlands

2.3.2.2. Stanford Univ., USA

2.3.2.3. Univ. of Victoria, Canada

3. グランドデザイン

3.1. あるべき講義内容とその時期

3.2. rare case option への対処

4. 現実的な措置

4.1. 現況にて実際的と思われるシラバス

4.2. ごく近い将来に実現可能なシラバス

4.3. あるべきシラバス

5. その他

5.1. コンピュータを使った医学教材の開発に関して

5.2. コンピュータを使った医学教育に関して

5.3. 医療情報学講座の必要性について

 

1.前文

 

 学部教育におけるシラバスを考える際に「本学医学部としてどのような医師を育てたいか」という理念を差しおいて論ずることは適切ではないし,また,本来できないはずである.理念に基づき具体的な策を考える場合,相当程度の選択の幅は許容されうるが,それでも現実に存する様々な制約要因によって多指向性もしくは無指向性ではありえず,限定性は不可避である.

 その限定性の中で優先順位や重みづけが決断されていく際に,社会からの要請や行政からの指針を尊重することは当然である.しかしリソースの制約による限定性のもとで為される,現在のみならず将来への予測を踏まえた選択にはある程度の裁量が与えられており,その中での制約された選択こそが個性であるとも言える.もはや画一的な網羅性,換言すれば重みづけの明確でない多指向的な選択はもはや選択ではなく,これでは競争力等を保持できない昨今であることは論を待たぬであろう.

 しかるに今回,理念と目標とを明示されぬまま,情報関係の教育のあり方について諮問された.よって本稿はこれらに配慮できないまま,つまり本学医学部が目指す個性を反映できないままに記されたものである.御批判の際には,この条件下で記された稿であることにも御留意願いたい.

 

 さて個別の教育科目を論ずる前に,おそらくは一般的な傾向として懸念すべき事項が幾つかあるように感じている;

日本語という語学の能力

哲学と文学の素養

想像力と抽象概念思考力

信条と価値観と倫理観

生命を含む自然の体験と畏敬の念

これらは学として学を修得する際にも,学を切り拓いてさらなる発展を求める際にも,また生命と人生に関わる職業人を全人的に形成する際にも,軽視できない事項である.医療情報学そして医科学情報教育においてもこれらは基礎能力として非常に重要であり,本来これらなくしては効率的な教育効果は望むべくもない.

 

 一方,個別の専門教育科目における最大の眼目は,以下の二つにあろうかと思われる;

視点と問題解決能力の教授(その領域もしくは関連領域を含めて)

インスピレーションもしくはモチベーションの賦与

なお臨床科目については,具体的な経験の開示や pitfall の紹介も,もちろん重要であろう.また極めて専門的な知識の教育に際しては,ある程度の spoon feed はやむをえないであろう.しかしそれだけでは,真に将来性ある人材を輩出することは困難ではなかろうか,と感じている.

 

 以下の稿は,全てではないにしても上記を踏まえつつ展開した論である.本稿がなにかしらの御参考になれば,本学教授の一員として誠に幸甚である.

 

 

2.医科学情報教育に必要な事項

 

2.1. 概論

 医科学情報教育に必要な事項を,以下に列挙する.下記のリストには段を付けることによりある程度の分類整理を試みてはいるものの,完全あるいは誰もが納得するような二次元的な分類は困難である;

 

・医療情報学

・コンピュータ リテラシー

・インターネット

・医学

・医学や保健福祉学

・診療録の意義と記載

・情報管理学

・医療学

・社会学

・倫理学/哲学

・経済学/経営学

・論理学/解釈学/認知科学

・情報工学

・モデリング

・プログラミング

・医科学統計(含む推計学)

・数学

 

というのも,これらの事項は互いに関連しあい影響しあって,複雑に絡みあっているからである.

 これらの事項は医療情報学の背景についても多くを表している.医療情報学ではこれらの事項を踏まえかつ統合しつつ,さらなる分析・考察・展開等の創造的知的作業が求められている.

 

 医科学情報教育においては,上記の「必要な事項」は以下の二つに分類できる;

1. 医科学情報科目(仮称)において講義実習すべき事項

2. 医科学情報科目(仮称)を履修する前に修得しておくべき事項

 

 なお本節もしくは本稿にて述べることは「医療情報学」の教育ではなく,「医科学情報科目(仮称)」であることに御注意いただきたい.よって,基礎医学科目や臨床医学科目の下部構造を為す科目としてのスタンスを,いちおう貫いているつもりである.

 もし「医療情報学」の教育を考えるとなれば,履修すべき事項も多少替わり,より鮮鋭な切り口となる部分も生じてこよう.

 

 

2.2. 各論

 

2.2.1. コンピュータ リテラシー

 コンピュータ リテラシーは,今や学問のためではなく単に生活していくためにも不可欠の能力となりつつある.したがって本来は中等教育の課程などで教えられるべき事項と思われるが,本学医学部の学生では約45人中の3名程度にしかコンピュータ リテラシー(しかも一部!)がないという現況である.

    1. ハードウエアとソフトウエアの基本概念
    2. 基本操作
    3. ワードプロセッサ
    4. スプレッドシート
    5. インターネット
    6. プレゼンテーション
    7. データベース
    8. 文献検索
    9. 医科学統計(推計学を含む)

 具体的には,上記のリストのうち#5または#6までは中等教育課程に任せ,医科学情報教育では#7以降に重点を置きたいところではある.

 なおプログラミングについては,この節からは敢えて外してある.プログラミングの技能は全員が必要になるわけではないことと,「コンピュータが使える人=プログラミングできる人」という誤った図式を払拭するため,また今後はプログラミングよりもむしろモデリング能力の方が問われてくるようになる,という理由による.

 

2.2.2. インターネット

 インターネットの現在ならびに将来の重要性については説明を要しないであろう.読み書き算盤と同様,電話やファックスと同等以上の機能を持つコミュニケーションツールを日常的に使いこなす能力は,既に必須となっていよう.

    1. 概要(ネットワークと通信の成り立ちを含む)
    2. Mail
    3. Telnet
    4. FTP
    5. WWW (HTML)
    6. 各種ファイル形式とその変換方法

 「コンピュータ リテラシー」と同様,中等教育に任せたいところではある.一方,ヒトはモノを使うことによってソレを学ぶので,学生に対する各種通知やレポート等は全てインターネットにて行う環境,そして教官と事務官の協力が得られ,かつ,学生にリテラシーさえあれば,将来的にはインターネットの講義や実習を行わずに済むようになるのかもしれない.

 しかし当面はリテラシーと同様,講義と実習の要があるようである.その際,共通科目としてではなく学科科目として扱ったほうが,実際に教える側としてはレベルを揃えやすく,好ましい.

 

2.2.3. 診療録(診療行為とその履歴)

 診療録の記載とその意義や Weed POMR については,「症候とその評価法(1)」で講義されている.このような臨床的な側面からの講義内容は,より良き治療を行うための講義として必須である.

 しかし診療録の意義や診療録をとりまく問題について,別の側面からも捉えなおしておく必要があろう.各種の強制法規,学的資産価値ならびに病院経営上の資産価値,院内での情報ディレクトリとしての機能,情報公開や患者自身に依る選択を支援するようなセキュリティのありかたなどである;

    1. 法制上の義務
    2. 法的証拠能力
    3. 資産価値
    4. 「場」としての機能
    5. Confidentiality & Security

 このような内容,とくに後半部分は「症候とその評価法(1)」という一連の講義とは目的や焦点が異なるため,そのような流れの中で講義することは適当ではなく,またそぐわないと思われる.上記項目は医療の社会的な側面,あるいは,組織としての医療サービスの提供に関わる諸問題などに焦点が置かれているからである.(後節「病院における情報環境」ならびに「Confidentiality & Security」も参照のこと)

 

2.2.4. 情報管理学

2.2.4.1. 医療学

 医療提供という実践に関する教育は,学問的色彩も強い他の医学専門科目の教育とは分けて考える必要がある.と同時に,シラバスにおいても相当の地位と優先度を賦与されるべき領域である.というのも,医学を社会から分離したとしても学として成立しうるが,医療は社会と歴史とに深く埋め込まれた現実・または現実的な対応であり,したがって相当の体系と時限数をもって教育すべき科目だからである.

 昨今の行政ならびに社会の諸情勢からして,医療福祉の供給方法とその管理運営方法を教育することは,医学部学生の進路に関わらず,本人にとっても受入組織にとっても,また国民にとっても重要であろうと考える.

    1. 医療に関わる社会システム学
    2. 経営学と経済学
    3. 国際標準(ISO 規格)

 上記に医療学を教授するための背景を列挙した.#1は必須だが,#2を学部教育科目として講義することは非現実的であり,したがって#2は共通教育科目にて修得させるべきであろう.

 #3に対しては違和感を覚える向きもあろうが,これは中らない.ISO 9000 シリーズ ならびに ISO 14000 シリーズ については今さら言うまでもなく,本年はさらに ISO/TC 215 Medical Informatics)が設置された.これらの経緯と状況を鑑みれば,今後は医師も ISInternational Standard)を意識せざるをえないばかりか実践さえ求めらるようになることが,容易に理解できよう.ちなみに WTO/TBT 協定により,IS を遵守する義務が科せられている.(後節「病院における情報環境」も参照のこと)

 

2.2.4.2. 病院における情報環境

 今日の病院では,旧来の一対一の患者対医師の関係は存在せず,一対多の患者対病院スタッフの関係となっている.病院スタッフには,診療現場の医師や看護婦はもとより,部門の技師等あるいは医事会計の外部職員までが含まれている.また扱う情報の内容は critical であり,その量は増え続けている.よって病院における情報の流れや管理は複雑となっている.一方,病院は大学附属病院といえども淘汰の対象となる時代となったが,生き残りのためには情報システムの活用が不可欠であることは広く認識されている.

 このような認識は病院運営機関や病院管理責任者のみが持っていても充分には機能せず,また,単なる「印象としての認識」では適切な運営管理もおぼつかない.しかし現状を見ると,多かれ少なかれ,どの(大学)病院においても明確かつ具体的な認識を,運営管理者も個々のスタッフもが共に持つには至っていないようにみえる.たとえばコスト意識ひとつにしても,削減もしくは吝嗇のみが論ぜられ,初期投資や時宜を得た投資が看過されるならば,管理者としての資質や展望を疑われても致しかたあるまい.

 この原因には種々あろうが,本節の標題を主題とする講義が無かったことも非常に大きい.つまりこれまでは,医学部学生にこのような観点を与えておらず,また学としての医学あるいは治療学に重きが置かれ過ぎていた,と言わざるをえないであろう.

 今後,医療技術だけでなく経営感覚も備えた病院スタッフ,あるいは(将来の)病院運営管理者や医療行政に関わる人材を輩出するためには,以下に列挙する事項の教育は不可欠であろうと考える.なぜならメカニズムを知らなければ,いわば病院の「診断」も「治療」もできないのだから;

    1. 情報環境の概略
    2. 情報の保管管理
    3. 閲覧利用の管理 (臨床や医事事務等そして臨床研究のみならず,基礎研究等を含む)
    4. コストとその負担
    5. 投資配分と生産性
    6. 病院運営の戦略
    7. システムと国際標準

 逆にこのような教育を授けなければ,たとえば「ある診療科の我侭」といった問題の解決さえ,今後もなかなか困難かと思える.(前節「診療録」ならびに「医療学」も参照のこと)

 

2.2.4.3. Confidentiality & Security

 医療は歴史(伝統や文化)と社会に根ざしており,その限定性の中から逃れられぬことは既に述べた.昨今では遅まきながら本邦でも,患者の「知る権利」や「選択または管理する権利」が主張されている.

 この根源には下記の#1が深く関わっていることには論を待たない.しかしこれを共通教育科目で講義するのみでは片手落ちであり実際的ではない.#1への対応には必ず実践の領域もしくは場の存在が前提とされており,これを加味しなくては空論となるからである.そのうえで#2以降の項目を講義し,かつ学生自身にも充分に考察させる必要がある.

    1. 倫理と価値観の多様性
    2. 情報の開示と情報の保護
    3. 患者の選択権と管理権
    4. 負担の回避と情報の交換
    5. 業務上の知る必要性 セキュリティ
    6. 医師による知的付加価値の保護

このような「人の生き方」に対処しうる素養や知識は,一朝一夕では得られないからである.臨床に出てから,つまり職業人となってからでも遅くはないという考えには共感しかねる.

 というのも卒業生の全てが臨床をするわけではないし,そもそも本邦が初等教育において倫理や道徳に重きをおかなくなって久しいからである.思うに,倫理や道徳面で確たる初等教育を受けた方々が「臨床に出てからで良い」と言われるのと,そのような教育を受けなかった方々が「臨床に出てからで良い」と言われるのとでは,ニュアンスには相当の隔たりがあるであろう.

 さらに,国民が期待している医師像とは,たとえ卒業直後の医師であったとしても,それなりの見識を持ちあわせている姿であろう.つまり,できうれば素直に尊敬できるような人物であって欲しい,という願いに似た感情が底流にあるように思える.

 したがって「国民に求められる医師」を育てるには,あらかじめ上記の#1を前提として#2〜#6の教育を施しておくことは不可欠であろう.(前節「診療録」「医療学」ならびに「病院における情報環境」も参照のこと)

 

2.2.5 論理学/解釈学/認知科学

2.2.5.1. 意味と思考過程

 一部には「医学は情報である」という標語を掲げる向きもある.これは言い過ぎのような気もするが,たしかに情報とその扱い,そして思考と決断とが重要であることは真実である.それにも関わらず解釈や論理に関わる基礎教育,あるいは認知科学の教育が軽視され続けてきた.

 事実,診療における思考作業では認知と解釈と論理構成が繰り返されており,その優劣は治療結果にも大きく影響している.とすれば認知科学等を履修し,以下の事項を整理しておくことは必要である;

    1. データとインフォメーション
    2. 情報の連携と概念の形成
    3. 解釈における視座と文脈
    4. 臨床における思考と決断 (意思決定理論)

 このような背景知識があってこそ,カルテもしくは診療履歴の意義を深く理解するようになる.また,臨床現場におけるカルテ記載の姿勢も,自ずと改善されていくことであろう.

 実際,専門課程の学生等に講義してみたところ,ほとんどの学生が興味深そうに聴いていたことを一度ならず経験している.つまり教授法さえ適切であれば,彼等は受け入れる準備があり,自分に必要なこととして考察する心構えを失っていないと期待される.

 

2.2.5.2. 情報の伝達

 学者としても臨床家としても,医師は,情報の的確な伝達を,普通より頻繁かつ高度に求められる職業である.その幅の広さには audience の種類の多さも起因している.いわゆるプレゼンテーション技法も大切だが,その前に日本語の扱いを再履修させるべき状況にあるようにも思える.そのうえで;

    1. イメージの確保
    2. 送り手と受け手の尺 (背景や価値観)
    3. イメージの伝達と表出

これらを主に認知科学的なアプローチによって説くことが必要であると感じる.修辞学的つまり技能的な素養を求めるものではなく,メカニズムの理解を与える必要性を主張しているのである.

 たとえば,独自の記号による意味不明のカルテ記載が法廷闘争で証拠として採択されなかったり,あるいはせっかく独自の領域を切り拓いたにも関わらず学術雑誌に採択されないその原因は,上記に列挙した3項の内の何れかが欠落している可能性の高いことに気づかずに,嘆き憤る悲喜劇を繰り返さないために.

 

 なお哲学的な素養(論理学や解釈学)の修得は専門課程あるいは臨床実習の段階では困難であり,本来,中高等教育の課程で履修すべき事項であろう.また日本語に至っては初中等教育課程とともに家庭の問題であるとも言えよう.

 とはいうものの現状は現状でありまた現実なのであるから,これには何らかの対策を講じなければならない.1回のセッション(数コマ)で講義するならば4年次が,2回のセッション(数コマ x 2 )ならば1もしくは2年次と4年次とが妥当であろうと思われる.

 また単なる講義ではさしたる効果は望むべくもないことは明らかであり,適切な題材を選択しつつ具象から抽象へ引き上げる教授法とともに,ディスカッションやレポートをも課する必要がある.このような教授法は,学生よりもむしろ教官の負担が過大となる可能性がある.

 

2.2.6. 情報工学

 医科学情報科目(仮称)というコトバからは,本節に挙げたような教授内容を連想される向きが,未だ多いであろうと推測する.しかし本質的に必要とされていることは,情報工学における技能等ではなく,前節までに概説してきた,情報の発生や伝達の機構あるいは情報活用における社会性であることを,繰り返し強調しておきたい.そのうえで,以下の事項を修得させることが理想である.

 

2.2.6.1. モデリング

 コンピュータシステムは本来,効率化等を目的に導入される.しかしこれまではハードウエアあるいはソフトウエア技術の制約等から,いわゆるコンピュータ的な「処理」が優先され,千変万化の現実世界は軽視される傾向にあった.またこのことと表裏一体となって,プログラミング技能が尊重されてきた.

 今や時代は変わり,人々はプログラミングよりもモデリングに価値を見出すようになった.なぜならばモデリングが確固たるものでなければシステム構築は失敗するし,たとえ実装できたとしても維持コストが莫大となるからである.また一方では,プログラミングよりもモデリングの方がより高い知性を必要としており,かつ,システム化を目指している現実世界を深く理解しておく必要があるからである.

 医療関係ではこのような資質や素養を持った人材が極めて少なく,一大学としてではなく国家としても,このような人材の育成に努めるべき状況にある.

    1. 観て掴む
    2. 類型化しながら(仮想的に)造る (真似て再現する;強調するか捨て去る)
    3. (仮想的に)動かす

上記は具体的な履修項目ではなく,モデリングという思考作業の一端である.これを示した意図は,モデリングはなにもコンピュータシステムに特有な思考作業ではなく,基礎や臨床の研究における思考作業と相通じていることを明らかにするためである.なお具体的な履修項目としては以下の通りである;

    1. Entity Relation Model
    2. Data Flow Diagram
    3. UML ほか

 

2.2.6.2. プログラミングその他

 「コンピュータ リテラシー」節でも触れたように,プログラミング技能の修得は,リテラシーに含めなくとも良いであろう.もちろん基礎研究等にて全く新しい解析手法を構築する場合等には必要であるが,現段階では,それは rare case とすべきであろう.

 むしろ重要なのは情報の保管/交換/整形/変換に関わる書式やツールを知っておくことである.このような書式やツールのうち,それぞれ一つだけ挙げるとすれば#1と#2となる;

    1. DTD/SGML HTML を含む)
    2. Perl
    3. JAVA
    4. BASICC++ ,その他

 上記#1#2さえも,基礎教育としては必要がない,とする向きもおられるかもしれない.このような意見に対しては,#1や#2は研究や事務処理における時間当たりの生産性の向上に寄与することになるであろうとだけ反駁しておきたいと思う.(後節「rare case option への対処」も参照のこと)

 

2.2.7. 医科学統計(含む推計学)

 数学科等の教官が統計学や推計学を講義する場合,数学的な説明や記述あるいは「数学的に基礎的な」統計推計手法の教授に偏重しやすい傾向がある.これはこれで重要ではあるが,卒後,基礎研究でも臨床研究でも,既に修得したはずの知識が使えない者が散見されると聞く.これはあながち,学生の不勉強に依るもの断言することはできない,と考える.

 そもそも統計や推計の手法や概念は,実用に即しつつ研究開発されてきたものである.正しい統計推計処理を行う能力は,数式に従って正しく計算処理することではなく,正しい考え方や数式等を適用できるか否かにかかっているのである.後者を教えるには,まずは統計推計処理を施す学問分野の特徴を知っている必要がある.次に,その特徴に応じて,講義すべき概念や手法を選択する必要がある.

    1. 尺度の概念
    2. 母集団と標本の概念
    3. 分布の問題
    4. 媒介変数による分布表現の可否
    5. 推計の概念と判断の基準
    6. 医科学統計推計の特徴とその処理方法(デザイン,少数例,欠損例,その他)
    7. 統計パッケージの試用

 このように考えてくると,果たして共通教育科目等において,他の学問領域,とくに医学や保健学とは異なる特徴を有する学問分野を専攻する学生への講義内容と同等として良いのか否か,甚だ疑問である.

少なくとも医学部学生にとっては,非効率的に思える.

 

2.2.8. 哲学や宗教

 前文にて,昨今の「信条と価値観と倫理観」の曖昧さに言及し,また前節「論理学/解釈学/認知科学」では「哲学的な素養(論理学や解釈学)」の必要性を述べた.さらに前節「医療学」にて「医療は社会と歴史とに深く埋め込まれた現実もしくは現実的な対応」であることを記した.しかし一方では,宗教なり哲学なりの言葉に対して,ある種の抵抗感を覚える向きもあろうかと思われる.

 そこで,哲学や宗教を軽視できないどころか,実は下部構造として医学や医療を支えていることなどについて,略説しておきたい.

 

 まず最初に,哲学や宗教は学として多面性を備えていることを,確認しておきたい;人生論的な側面,倫理的な側面,あるいは,論理学,認識学,解釈学,価値論,などである.これらの側面を大別すれば,「考えること」を考えることと,「生きること」を考えることとに分けられよう.

 

 次に,ヒトの限定性について,二つの事項を確認する;一つに,ヒトは個として自由であることを法規にて保証されているが,実は完全なる存在の自由などあり得ない.なぜなら存在そのものが歴史と社会に埋め込まれているためである.もう一つは,信ずる拠り所あるいは信条,換言すれば「考える・生きることにおける座標軸」に依らざるをえなく,その座標軸は多少の揺らぎがあるにしても固定的である.

 この座標軸を identity と呼びうる場合もあるし,価値観,倫理観と呼びうる場合もある.一方,認識論的な立場とか,論理学や解釈学的な立場や手法,と呼びうる場合もある.

 

 いづれにせよこの座標軸は限定的であり,その限定性ゆえに,ヒトは一貫性を保持することができる.そしてそれゆえに,そのヒトが他のヒトを正しく解釈する可能性が生じてくる.あるいは,自らの思考の筋道を再現することや,他のヒトの思考過程を再現することが可能となるのである.

(なお解釈の際の誤謬発生の機構や時間推移における座標軸の変遷についての論は,ここでは割愛する)

 

 ヒトが他のヒトを理解する際に,座標軸が同じである必要はない.むしろ自と他との座標軸の隔たりを認識することこそ,他のヒトを正しく理解する際の前提条件となる.(例:文化や伝統などの差異)

 とすれば,昨今の「信条と価値観と倫理観」の曖昧さは,危機的であると言わざるをえない.多様性は許容可能であるが,曖昧さは危うい.なぜなら自の座標軸が曖昧なヒトは,他のヒトの座標軸との差異を確定することができず,よって他のヒトを正しく理解するための前提条件を獲得できないからである.

 

 さて医療,とくに臨床では他との関わりは避けようもない.したがって,自らの座標軸がいかなるものなのか,また他の座標軸はいかなるものかを認識できる能力と素養の修得は不可欠であると言えよう.

 また思考作業にしても,自らが立脚している考え方のフレームワークやパラダイムが如何なるものかを認識することは知的作業の基盤となっていることに,異論は無かろう.

 

 なお,この座標軸という拠り所をどのような言葉で表しても不都合はないが,哲学もしくは宗教という言葉は,けっして不適切ではない.また念のため,特定の宗派等に偏ったり強制するものでもないことを明言しておく.

 

 哲学や宗教の講義は医科学情報科目(仮称)の範畴を越えることは論を待たないが,しかし上記のことから,これを思い出させつつ講義を進めることは必須であろう.もっとも思い出させるには,あらかじめの素養が必要である.

 

2.3. 諸外国の医療情報学カリキュラの例など

 以下に引用を記す.(Handbook of Medical Informatics : Springer-Verlag 1997; ISBN 3-450-63351-0

 

2.3.1. Why Teaching Health and Medical Informatics ?

Health care professionals who are well-trained in medical informatics are needed to improve the management of data and knowledge throughout the clinical enterprise. Formal education programs in medical informatics are becoming increasingly widespread and range from special components of curricula for professional development to dedicated programs in medical informatics and continuing education in this field.

Well-trained health care professionals raise the quality of information processing. The quality of information processing influences the quality of health care itself. Therefore, for a systematic processing of information in health care, health care professionals who are well-trained in medical or health informatics are needed.

Medical or health informatics education has become an integral part of education and training for physicians, nurses, and administrators in different countries all over the world. In addition, medical informatics courses are offered to informatics students, ard dedicated programs are organaized for specialists in medical informatics.

 

2.3.2. Courses

 先進諸外国での医学教育システムは,日本のように6年一貫教育ではないので,年次については同列に論じられない.しかし項目については,法制,経済,社会性,思考過程などを含めて多岐にわたっていることに御留意いただきたい.

 

 Univ. of Maastricht, Netherlands

Year 1 Basic skills in information processing

Year 2 Introduction to epidemiology, statistics, and medical information

Year 3 - 4 Elective courses in medical informatics

Database

Decision support

Communication

Medical records

Signal analysis

Design of health care organizations

Information delivery in hospitals

 

 Stanford Univ., USA

1. Medical Informatics

Computer applications in medical care

Computer-assisted medical decision making

Algorithms and representation for molecular biology

Medical Imaging

Project course

2. Computer Science

Machine architecture

Programming languages

Analysis of algorithms

Artificial intelligence

Database

3. Decision Theory and Statictics

Probability

Statistical inference

Decision analysis

Experimental design

4. Biomedicine

Clinical diagnosis

Introduction to clinical environments

5. Health Policy

Public health

Medical ethics

Medical economics

 

 Univ. of Victoria, Canada

Health/Management Stream

Introduction to health information science

Hospital organization

Introduction to the structure and managemnet of health care

Medical methodology

Human communication and relations in health care

Fiscal management in health service

Legal issues in health informatics

Principle of community health

Introductory epidemiology

Health care systems

Issues in community health

Quality assurance and ethics

Epidemiology in services management

Informatics Stream

Introduction to health informatics application

Principle of health database design

Hospital information systems

Nursing informatics

Information management and technology

Patient care support systems

Distributed processing in health care

Principles of health information systems design

 

 

3. グランドデザイン

 本節では,前述までの事項を踏まえながら,あるべき講義等の内容とその教授時期を組み立ててみる.

 

3.1. あるべき講義内容とその時期

 下記の表では1時限90分として算定している.

 

------------------- -------- ----------------------------------------------------------------------------

年次  時限  内容

------------------- -------- ----------------------------------------------------------------------------

1年次 15 コンピュータ リテラシー の確認と復習

オフィスツール

インターネット

情報発信

1〜2年次 --- 選択: 哲学,論理学,解釈学 の中から一つ以上

倫理学,宗教学    の中から一つ以上

経済学,経営学    の中から一つ以上

3年次 6 医療福祉のフレームワーク

法規の枠組み

行政と行政の枠組み

医療福祉プロバイダとその相互連関

医療福祉サービスと金と情報の流れ

社会における医療福祉リソースとその配置

地域連携

4年次 6 病院機構と病院情報システム

病院の業務機構

コミュニティとしての病院

診療行為と診療履歴

価値観の多様性と患者の権利

セキュリティ

知のメカニズムと意思決定理論

6 選択: 専門コース: システムアーキテクチャ

       モデリング

       ネットワークデザイン

       データベースデザイン

       人工知能と支援システム

5年次 6 選択: 一般コース: 病診連携と診療情報の交換

研究コース: 統計推計または信号処理等

専門コース: プログラミング等

6年次 --- ---

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 なお1年次の内容と時限数はほぼ現行どおりであるが,先に述べたように医学部は医学部として教える方が一貫性とレベルの維持の点から有利であるし,topics も挿入しやすい.また中等教育課程の動向にも注意しながら,ここ数年間は必須単位とせざるをえないであろう.しかしそれ以降は,レベルに合わせて「基礎コース」と「情報発信コース」とを選択させる方が実際的かと思われる.

 

3.2. rare case option への対処

 最近は少なくなってしまったものの,卒前から特定の専門領域に興味を持ち卒後には当該研究室に入ることを決めている学生もいることであろう.これは rare case かもしれないが,切り捨てて良いわけではなかろう.教官削減や研究業績が問われるなか,特に基礎講座等にとっては,undergraduate の期間に,より効率的な技能修得を望むものであろうと思う.また rare case ではなく単に option としても,選択項目の修得を望む者もいるであろう.

 このような rare case option も許容しつつ単位取得を許可しても良いのではなかろうか.専門課程において選択科目等を許容した場合の問題は,プログラムの組み方,そして教官の負担,この二点にあると推測される.

 教官の生産性が学生教育にのみ奪われてしまうことは,もちろん好ましくないことである.しかし近い将来,学内のCATV(ケーブルテレビ)やVOD(Video On Demand),あるいはSCSやMINCSUH等を活用できるようになれば,上記のような問題も解消できるものと期待される.

 ただしVOD等のマルチメディアコンテンツによる教育に問題点がないわけではない.この点は後節「コンピュータを使った医学教育に関して」を参照のこと.

 

 

 

4. 現実的な措置

 医学医療のみならず情報技術の急速な発展によって,医学ならびに医療情報学に関する知識量は膨大となっている.前節「グランドデザイン」に配慮しつつも,そのような状況における限られた時限数のもとでの医科学情報教育を考える.

 

4.1. 現況にて実際的と思われるシラバス

 まず現状でのシラバスを示し,次にそれと対比しながら,現況にて実際的と思われる新しいシラバスを示すこととする;

 

 ■ 現状 (共通教育科目)

 

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年次  時限  内容

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1〜2年次 15 コンピュータ リテラシー

オフィスツール

インターネット

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 ■ 現況にて実際的と思われる 新しいシラバス 【共通教育科目とはしない】

 

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年次  時限  内容

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1年次 15 コンピュータ リテラシー の確認と復習

オフィスツール

インターネット

情報発信

Topics (特別講演を含む)

プレゼンテーション

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 ある主題のもとに学生自身に問題解決させていき,その過程のなかで適切な方向性を教示したり,必要な情報のあり場所や取得方法などを教える問題解決型の教授法を実施する.

 学生はこの過程で調査力,観察力,比較力,推測力,判断力,説明力などを駆使せねばならず,結果として必要な知識や技法を身につけ,問題を解決していく力や,複数事象を統合して一つの概念にまとめあげる力を養うことになる,と期待される.また時と場合に応じて,学外講師による特別講演も盛り込んでいきたい.

 このようなカリキュラは,共通教育科目では実現しがたい現状である.

 

 

4.2. ごく近い将来に実現可能なシラバス

 このシラバスは,中等教育課程までに コンピュータ リテラシー を身につけていることを前提としている.よって前節「現況において実際的と思われるシラバス」からの移行期間中には,配慮が必要となる可能性がある.したがって1年次には「標準コース」または「基礎コース」のいづれかを選択できる様なプログラムが好ましいと思われる.

 

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年次  時限  内容

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1年次標準 15 インターネットと情報発信

標準ファイル形式とデータ変換

  グラフィクス

  音声

  コード

標準書式とその交換

  XML (HTML)

  DTD/SGML

  RTF

データベースの設計と連携

  SQL

  Perl

Topics (特別講演を含む)

 

1年次基礎 15 コンピュータ リテラシー の確認と復習

オフィスツール

インターネット

情報発信

Topics (特別講演を含む)

プレゼンテーション

 

1〜2年次 --- 選択: 哲学,論理学,解釈学 の中から一つ以上

倫理学,宗教学    の中から一つ以上

経済学,経営学    の中から一つ以上

 

4年次 6 病院機構と病院情報システム

病院の業務機構

コミュニティとしての病院

診療行為と診療履歴

価値観の多様性と患者の権利

セキュリティ

知のメカニズムと意思決定理論

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4.3. あるべきシラバス

 前節「ごく近い将来に実現可能なシラバス」をさらに押し進めて,「あるべき講義内容とその時期」を実現すること.

 

5.その他

 

5.1. コンピュータを使った医学教材の開発に関して

 今後は医学教材にも様々な工夫を凝らす必要が生じてきた.シミュレーション,バーチャルリアリティ,インタラクティブ性等を駆使したマルチメディア教材は,好むと好まざるとに関わらず,求められることとなろう.

 しかしマルチメディアコンテンツの作成には深い専門知識のみならず, 想像以上の手間ひまが必要となる.そこで各診療科部や情報処理センターなどとのコラボレーションが必要となろう.そして作成した教材は,学内LANを活用してVODで放送できるような環境を作り上げることが望ましい.

 選択科目や特別講義等は,今後は CATV VOD,あるいは MINCSUH SCS を活用する,いや,せざるをえない時代が,すぐ近くまで来ているように思える.

 

5.2. コンピュータを使った医学教育に関して

 ただし,イメージによる理解だけでは不充分であり「言葉にする(できる)力」は重要なので,これを軽視しない工夫が不可欠なことは強く意識するべきである.

 言い換えれば,何かで埋め合わせが必要になるということである.この埋め合わせはディスカッションやレポートという,比較的コストのかかる教育手法しか無いように思われる.

 詰まるところ,VOD等は通常の講義の予復習のための副教材か,あるいは rare case option へも対応するための教材という位置づけが妥当のように思える.Rare case option の場合は,履修人数が比較的少ないと予想されることから,「埋め合わせ」のコストはあまり大きくならないと推測されるからである.

 

5.3. 医療情報学講座の必要性について

 21世紀にも生き残り続けるためには様々な変革と創意工夫とが必要である.それらの方策には,好むと好まざるとに関わらず,情報システムならびに情報の扱い方等が,深く関与せざるをえない.これを意識した大学では,たとえ重点化対象大学でなくても,すでに医療情報部を講座としているし,あるいは現在その努力が続けられている.

 病院業務を遂行しながら本稿で述べた教育計画を実践していくためには,一日も早く医療情報学講座が設置されることが必要であり,また本学医学部の発展にも必須であると考える.

 

以上