長い間ご苦労様さまでした

退官のご挨拶

 今春三月、琉球大学医学部を退官することになりました。私が琉球大学へ赴任したのは沖縄の本土復帰の年でしたので、沖縄生活は29年目になりました。今まで先ばかり見て来ましたので、過去の記憶も資料も埃を被って山積みし整理もされてないのが実状です。

 沖縄にとって本土復帰は大きな革命的変動で、まさに激動の時代でした。この昭和47年は琉球大学も国立大学へ移行した直後で、教官も事務官も勝手が分からず、過激学生は本土化への抵抗感や不満感から、「沖縄独立!」や「ヤマト帰れ!」のコールを上げ、保健学部の松川寮が中核派学生によって占拠されたり、保健学部の教授会への過激派学生の乱入、果ては保健学部校舎が彼等に占拠される等と騒々しい事件が相次いだものでした。

 保健学部は創設されたものの、当初は器具、器械類、消耗品などが皆無の状態で出発し、研究どころではなく毎日学生運動対策に明け暮れていたものでした。

それでも復帰後の格差是正特別予算が出て、教育研究が出来始めたのはやっと2年後でした。当時、保健学部は将来の医学部創設をにらんだ地盤固めの役割を担うものと自覚し、教官からなる医学部創設準備委員会などを結成し、保健学と医学を結び付ける未来型の保健学・医学教育などに夢を馳せたりしたものでした。そして、今まで日本には無かった新しい未来型医学部を構想し、医学科と保健学科を有する欧米型の保健学部の構想も上げられました。 

 しかし、現実には本土型の医学部が1981年に作られ保健学部は医学部保健学科になり、かつての仲間の多くは医学科に採用されない有様でした。近代的附属病院も同時に建設され、大学院研究科も1987年に新設されて今日に至りました。また、附属研究施設も出来、附属病院には昨年4月に病院病理部も創設され、新しい高度先進医療にも対応出来るようになってまいりました。

 ところが、今再び大学に怒濤のような改革の嵐が吹き始め、独立行政法人化や大学院大学への転身などが間近に迫り、琉球大学が新しい時代に生き残るために、新しい特徴・個性を出す事が求められています。

 何時の時代でも、大学のあるべき姿や教育のより良いあり方が求められて来ましたが、入れ物や形式作りばかりが先行し、内容が伴わず風化していくきらいがあります。これも我が国の後進性の現れだろうとつくづく思うようになりました。

 時代が変わり世界も変わって、今や日本の大学のあり方も変わらねばならないという新しい動きが、土石流のように今までのものまで押潰し被い尽くすかの如き勢いでやって来ると予想されます。

 さて、今後琉球大学に何が期待出来るのでしょうか。思いきって何か新しい価値観を追求するべき段階になったのだと考えます。そのためには沖縄の特徴を追求すべきでしょう。

 今まで、沖縄には欠点だとか不利だとか言われている面が多々あります。資源がないとか技術がないなどと言われ、皆そう思っています。 しかし、見直して見れば有利な特徴に変える事が可能なのかも知れません。例えば、厳しい亜熱帯の暑さは太陽の豊かなエネルギーであり、雪国から来た私には体温保持の余分な代謝を節減出来る分だけ長生き出来そうです。テーゲー主義やおおらかな対人関係も長寿の重要な要素だと分かってきました。亜熱帯の沖縄の自然は寒帯から熱帯におよぶ動植物の育成も可能にします。海も限りない資源を蓄えています。 

 こんな位置にあって特徴が出せない筈はありません。理学・工学・医学・芸術・文学などの分野において、大いに新しい琉球大学が特徴を出せる素材や可能性を持っていると考えます。

 今後の琉球大学の発展に大きな期待をもっています。

 (病理部長、病理学第一講座 教授 伊藤悦男)

 

 

 



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